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  • 2023/05/15

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    アッシュに現れた大きなハチを助けてみた( ̄▽ ̄)

    みなさん、こんにちは。

    今日は先日アッシュに迷い込んできたハチについてです( ̄◇ ̄;)
    今週末はとても暖かくて、外の空気を取り込もうと入口を開け放っていたら、
    館内に大きなハチが入ってきて、どうする?殺すか?と困っていました( ̄▽ ̄)
    でもどうやら悪意のないことから放置することにしていたのですが、
    今日のフロントに力なく床にいたので、殺して掃除機で吸うか、いやでも放っておいても死ぬだろうから次に見かけた時に処分するか・・・
    だがしかし、もう飛べないし、襲っても来ないのであれば何もここで死ぬことはない💫
    だから箒の先っちょに乗せて外に咲いてたタンポポまで連れて行ってあげた✨

    したらすごい一生懸命タンポポにしがみついて何か吸ってる感じだった( ̄▽ ̄)
    よくわかんないけどとても嬉しそうに私には思えた。
    いや違うな、たぶん嬉しかったのは私なのだと思った。
    元々の私は床に落ちていたハチをいかにしてゴミのように処分しようかと思索していたのに、まだ息のあったハチを目にした私の身体はハチを外に出してあげようという選択をして、そこにたまたまタンポポがあったのだ・・・
    私はその顛末への嬉しさとそういう自分を確認できたことへの安堵を感じたのだ、と私は思った( ̄▽ ̄)
    つまり、私の元々有している思考が私の身体が有している意志によるある種の変容が行われたことを感じられた出来事だった。

    とかいう現象と思考の間にある構造を明らかにするための小説でも書こうと思った。

    自然は死の世界である。
    私たち人間の肉体もまた死に属している。
    『仮に』ダーウィンの進化論に則って猿及び猿以前の時系列に生物と環境の歴史があったとしよう、すると現在は人間としている私たちもまたかつては猿だったのであり、それ以前の時系列の生物及び自然の一部であったということが言えると思う。
    では先日から今日にかけて私の目の前に現れたハチとは何であったのか?
    私たちの目の前にある現象とは全て、過去“私であったかもしれない”人間に変容する以前の私たちの主体がすでに脱ぎ捨てた主体の姿のこと、と言えるとは思いませんか?ではそこからもう少し踏み込んで私たちが人間と呼んでいる生物、あるいは現象や概念とは一体なんであると言えるでしょう?
    そのことにはっきりとした見解を述べることができないということは、対象存在との関係や死に向かっている私たちの自分自身の運命の正しさに自信を持つことはできないはずだし、または本当の意味での現実での成功や成果、目的の意味を勘違いせざるを得ない社会に多くの人が混迷的な活動していることへの証明と明確さが目の前の対象のほとんどにわかりやすく現れている、ということだ( ̄◇ ̄;)
    過去私であったかもしれないハチの姿等に・・・
    もしも、ダーウィンの進化論に則る社会信仰に準ずるとするならばね( ̄▽ ̄)

    アッシュに現れたハチがミチバチだったことをGoogleレンズが教えてくれた。

    大事なのはこのミツバチのことを学術的に決められている正確な名前(ラベル)を忠実に覚えるそのバリエーションに利益を求めることでないことだけは確かだ。
    知識の正確さは社会的な助けになることはあっても目的となってはならないのだ。
    だってもうグーグルやAIが何でも教えてくれるのだから・・・
    だから私たちは常に新しく在らねばならないのだ( ̄▽ ̄)
    そしてできる限り自由に人間と自分自身を解放してあげる必要があるのだ💫

    ハチはどうせ死ぬ。
    私が差し伸べたハチへのタンポポアシストにどんな意味があったのか?
    人間もどうせ死ぬ。
    人間が人間に行うアシストにどんな意味があるのか?
    自由への到達点が対象を認識している私たちの主体に求められている。

    アッシュ前のタンポポにいたミツバチはその付近のどこにもいなかった。

    それではまた〆